[読書]「スモーク・シグナルズ」「リトル・トリー」
年が明けて、ネイティブ・アメリカンが製作した一編の映画を観て、同じくネイティブ・アメリカンの血を引く著者による一冊の翻訳書を読んだ。
映画「スモーク・シグナルズ」(Smoke Signals)は、監督クリス・エアはじめ、ネイティブ・アメリカンの映画人たちが監督、脚本、出演を手がけた映画史上初の作品。
書籍「リトル・トリー」(The Education of Little Tree)は、チェロキー族の血を引くフォレスト・カーターによる自伝的小説。10年程前に日本でもベストセラーになった作品だ。
- 作者: フォレスト・カーター,和田穹男
- 出版社/メーカー: めるくまーる
- 発売日: 1991/11/01
- メディア: 単行本
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この二作品から、私がもらったメッセージは沢山あるけれど、三つほど挙げてみたい。
どれも当たり前のことだけど、大切なことだと改めて思ったので。
一つ目は、過去を知るということ。
「リトル・トリー」に以下の一節がある。
祖父母はぼくが過去を知ることを望んだ。昔を知らなければ、未来は開けてこない。祖先の人たちがどこから来たのか知らなければ、これから人々がどこへ行こうとしているのかもわからない。そういうわけで、昔の話をしばしば語ってくれた。
「祖先の人たちがどこから来たのか知らなければ、これから人々がどこへ行こうとしているのかもわからない。」
日本にも本当に沢山の昔話があるけど、過去を懐かしむだけでなく、過去を未来に繋げていくための装置でもあったのだろう。
地域の自然の中で生きていくための膨大な知識や技術は、歴史書や公文書には到底書ききれないほどの量を持ち、また文字情報では到底表現できないほどの複雑さと身体性を持つ。それを人々は、口伝えで継承してきた。
ネイティブ・アメリカンの思想の根幹に「未来への希望」があるのを感じたのだが、これは過去を未来につなげる努力を惜しまない日々の営みに根ざすものなのだろう。
過去の祖先たちが綿々と積み重ね、伝えてきた膨大な知識や技術が未来へと継承されていく。だからこそ、未来は今よりもっと良い世の中になるはず、と。
祖父の友人ウィロー・ジョーンは「次に生まれてくるときは、もっとましじゃろう」と、祖父は「今生も悪くはなかったよ、リトル・トリー。次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」と、祖母も「次に生まれてくるときには、もっとよくなるでしょう。なにも心配はないわ」と、リトル・トリーに言い残してあの世に旅立った。
「次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ」。
こんなことを言い残して死ねる生き方をしたいと思うし、それができる社会になればと思う。
二つ目は、理解するということ。
「リトル・トリー」の一節。
祖母は名前を「きれいな蜂」(ボニー・ビー)と言った。ある夜おそく、祖父がI kin ye, Bonnie Bee.と言うのを聞いたとき、ぼくにはそれがI love you.と言っているのだとわかった。言葉の響きの中に、そのような感情がこもっていたからだ。
また、祖母が話の途中でDo ye kin me, Wales?とたずねることがあった。すると祖父はI kin ye.と返す。それはI understand you.という意味である。祖父と祖母にとっては、愛と理解はひとつのものだった。祖母が言うには、人は理解できないものを愛することはできないし、ましてや理解できない人や神に愛をいだくことはできない。
祖父は、昔自分がまだ生まれないころはkinfolksという言葉は、自分が理解しうる人で、かつ理解を共有しうる人たちのことを意味し、したがってまた、愛し合う人たちを意味していたのだと言う。だが、人々は自分本位になってしまい、その本来の意味とは無縁の、ただの血縁関係者を意味するものへと言葉をおとしめてしまった。
同じ単語を使っていても、その意味をどれだけ深く捉えているかによって、その単語が持つ価値は全く違ってくる。インディアンがかつて使っていた「理解する」の価値と比べて、今私達が使う「理解する」の価値はなんて軽いのだろう
「理解する」の意味をもっともっと突詰めて考えていかねば。もっともっと大切に使わなければ。
三つ目は、アイデンティティの形成について。
「スモーク・シグナルズ」は22歳の青年ビクターの、「リトル・トリー」は4歳の少年リトル・トリーの成長を描いたものである。
その(個人としての)成長が、ネイティブ・アメリカンとしての(民族・部族としての)アイデンティティの形成と深く結びついているように感じた。
自分がネイティブ・アメリカンであると強く意識する人ほど、ネイティブ・アメリカンとしての誇りを持つ人ほど辛い思いをしなければならないような状況の中で、ネイティブ・アメリカンの若者達は、ネイティブ・アメリカンとしてのアイデンティティを持つか持たないかの選択を迫られる。
そういった状況の中で、限られた者達はそれを持つことを選択し、数々の悔しい辛い思いをしながら強くなっていく。
こうしたことは、居留地に閉じ込められ空虚な生活を強いられ、政策的に(?)民族としてのアイデンティティを剥奪されようとしているネイティブ・アメリカンほどではないにしても、今グローバル化の波にさらされている我々日本人だって、同じような状況に置かれていることがあるのではと思った。
どんな人でも、自分探しのプロセスの中で、ルーツ(生まれた地域、民族、家族等)に対する問いに直面することがあるだろう。
その時、その問いにどういう姿勢で立ち向かうのか。知らないふりをするのか、とことん突詰めるのか。
この二つの作品は、そういったことに対して問題提起をする書籍であり、映画であると思った。少なくとも、私にとっては。
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読み終わって、まだ頭の中が整理できていないが、強く感じたのは以上のようなこと。
また、いつか読み返してみたいと思った。