日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

十津川村民二千五百人集団移住に際しての「十七箇条の議決」


最近、東日本大震災や、その後の原発事故に関連して、「集団移転」「集団移住」のニュースをよく目にする。こういったことは日本ではなかなか前例がないことでもあり、また移転の規模も大きく、行動までに与えられた時間も限られていることから、どの地域も色々な課題に直面されているようだ。

で、ふと思い出したのが、以前仕事でお世話になった奈良県十津川村のことである。

(ちなみに、仕事の内容は、以下。世界遺産・熊野古道と源泉掛け流し温泉を活かした地域づくりの仕事で、入社したばかりの時に手伝わせてもらった。とても得難い経験だった。)
平成十六〜十七年度(財)電源地域振興センターマーケティング調査事業活用事例「ほんもの」の地域資源で勝負する日本一大きな村

十津川村は、明治22年8月の記録的な豪雨による大水害で村落の大部分が壊滅状態になり、600戸・2500人の住民が北海道石狩のトック原野へ集団移住した歴史を持つ。なお、移住した先は、今も新十津川町として、十津川の名を残している。また、新十津川町の町章は、十津川村と同じ、菱十字である。

北海道新十津川町
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Flag_of_Shintotsukawa%2C_Hokkaido.png/800px-Flag_of_Shintotsukawa%2C_Hokkaido.png

この十津川村の集団移転の歴史が、今の日本に教えてくれるものがあるのではないだろうかと思い、以前購入していた分厚い村史のページをめくってみた。

(「十津川郷」、編纂者 西田正俊、発行者 十津川村長野尻忠正、昭和7年10月初版発行、平成6年10月七版発行)

やはり集団移転に関する記載があった。以下のおどろおどろしい水害の描写から始まる「第十章 災害移住」。

「明治廿二年八月十九日は如何なる凶日ぞ。天地晦冥、前日来の雨勢益々強く、夜に及んで衰へず。十津川本流を始め、其の支流渓谷の水量は俄かに満漲し、濁流滔々として沿川の村落を浸襲し、人畜を傷め、家屋を呑み、山林を損じ、田畑を洗う・・・

私が特に興味を持ったのが「十七箇条の議決」に関する記述。

十津川村は、当時6つの村に分かれていたのだけど、その十津川郷六箇村の村長らが、文武館(現・県立十津川高校)に集合し、移住者の財産分与、借金返済の決まりにはじまり、本村と新村の絆を永世保持する誓いまで、十七箇条の議決をしていたようだ。

村史には、十七箇条中主要な八箇条しか記されていなかったが、今後の東北の集落移転や集団移住について関係者が話し合われる際に何かの参考になるかもしれないので、(稚拙な現代語訳も付して)、以下にメモとして転載しておきたい。
(当事者の方が、ネット検索等で、このエントリーを目にして下さって、ほんの少しでもご参考下さったら幸いです。)

そして六箇村の当局者は、文武館に会合して、先づ移民共有物の処分法につき内協議を遂げ、尋で臨時十津川郷会を開き、共有物処分法に関し、十七箇条を議決し、旧新両村共将来此の議決を遵守することにした。其の主なる箇条は

第一、今般郷人中北海道某地へ移住新村を造成するも、十津川本郷と南北相応じ、永世其因縁を保ち由緒相続する事、
(これから北海道に移住し、新たに村をつくるけれども、十津川の本郷と新村は永世にわたって、同じ十津川のものとしての因縁・由緒を保ち続けること)
第二、共有資金は明治廿二年七月一日戸数を標準として分割すること、但し分割したる資金は本郷新村各基本財産として殖産の方法を設くること、
(共有資金は、明治22年7月1日の戸数に基づき分割し、分割した資金は、本郷・新村のそれぞれの基本財産として将来の復興に役立てること)
第三、大山谷及中の川土木山林は、他日時機を見計らひ売却して、第二項の戸主数に依り、代金を双方村方へ分賦するものとす、
(共有の山林は、後日時機を見計らって売却し、その代金は、第二項の戸主数に基づき本郷・新村に分けるものとする)
第四、士族授産勧業拝借金を以て、栽培せる山林並に勧業種牛は、現今評価の上其代金と残金とを合わせて第二項により分賦をなす、尤も山林種牛は本郷分賦金の内とす、但本項拝借金返償之義務は分割金額歩合に拠り本郷並に新村共に其責任を尽すものとす、
(士族授産勧業拝借金(公的融資のようなもの?)で保育してきた山林や家畜の価値は、現時点で評価し、その評価額を第二項の戸主数に基づき分けるものとする。但し、拝借金の返償の義務は、本郷・新村共に責任を持って担うこととする)
第五、別添目録に掲ぐる郷中宝物並に由緒等分割し得べからざるものは、従来の通り永世双方の共有物とし、本郷に於て保存すること、(目録略す)
(別添の目録に挙げる村の宝物や美術品など、分割が難しいものは、これまで通り、これからも永久に本郷と新村の共有物として、本郷に保存すること)
第六、今般移住者は、概ね被害者なるを以て、前項共有資金及共有物処分済の上は本郷より手当として更に移住者毎戸に付金二円づつ交付すること、
(これから移住するものほとんどが、水害の被害者であるので、前項で示した共有資金や換金された共有物は、手当として移住者に各戸二円づつ与えること)
第七、玉置山の事将来移住者は、該山に係り、都て収支の関係を絶たんが為め、金二千円を移住者戸主一同へ分与すること、
(移住者がこれまで玉置神社に神事のために奉納してきたお金(の余り?)を返す意味で、金二千円を移住者の戸主一同に与えること)
第八、文武館は本郷の支配に任ずべきものとす、
(文武館の管理は、本郷に任せること)
斯くて第一回の移住として北十津川村及十津川花園村次いで西十津川、中十津川、東十津川、南十津川の各村と云う順序にて出発し、神戸より乗船したのである。

これらの条文から、当時の混乱・緊迫した状況の中でも、村のリーダー達が、移住する村民、村に残る村民達の心情に配慮し、冷静かつ真摯に重大な決断を下された当時の情景が目に浮かんでくるようである。胸が詰まるような思いがした。

なお、村史には、その後神戸港から小樽へ向かう船中の移住者の手記も掲載されている。出航とともに赤ちゃんが生まれたエピソードからは、困難の中にも移住者達の強い決意と希望が伝わってくるように感じた。

神戸の有志者から手拭一本づつ呉れたが、それには『十津川の郷士北海に移る将来を楽しむ神戸有志』と染めぬいてあつた、十一月一日午後三時に神戸を出帆した、船は兵庫丸とか云うた、船の中では乗るのを待ち兼ねた様に西垣貞喜さんの奥さんに、男の子が生まれ松下茂美さんが洋一ちゆう名をつけた、船員等はめで度いめで度いと大変よろこんでよう世話してくれた、海は荒れたこともあるが、大した事もなく小樽まで直行して六日の朝に小樽に着いた。


追伸:現代語訳に明らかな誤りがあれば、是非ご指摘ください。自信ないので・・・