日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

十津川村集団移住後に移住民が誓い合った「七箇条の誓約書」

先日、奈良県十津川村が、明治22年8月の記録的な豪雨による大水害で村落の大部分が壊滅状態になり、600戸・2500人の住民が北海道石狩のトック原野(今の新十津川町)に集団移住する際に、村のリーダー達が取り決めた「十七箇条の議決」について紹介しましたが、

十津川村民二千五百人集団移住に際しての「十七箇条の議決」 - 日本再発見ノート Rediscover Japan.

色々とその頃の情報を探索していると、移住者が移住後に起草したという「誓約書」の存在に行きあたりました。例えば、十津川村のホームページには、以下のような記載がありました。

当時移住民は故郷を離れ、極寒の地に移り、境遇の急転風土の激変により、不安焦燥の念に駆られ、目前の事に気 を取られ、永遠の計を忘れる者があった。喜延は深くこの事を憂い、「移民誓約書」を作り一致団結を強調、風紀の粛正を呼び掛け、且つ基本財産蓄積の計を確定し、各戸主に署名捺印させ厳守することを誓約させた。思うに今日新十津川発展の基礎は、喜延の高遠な識見による所が極めて大きいといわねばなるまい。
十津川かけはしネット(十津川探検 〜十津川人物史〜「更谷喜延」)

また、新十津川町にある「新十津川町開拓記念館」(公式HP)には、その誓約書が展示されているようです。

http://www.geocities.jp/sun3annex/sintotukawa/kinen5.jpg
(出典:新十津川町開拓記念館2

で、この「誓約書」に関心を持ち、「新十津川町開拓記念館」を管轄する新十津川町教育委員会に問い合わせてみました。

担当の方が快く応対してくださり、「新十津川百年史」(新十津川町史編さん委員会編集、新十津川町役場発行)という町史にその誓約書についての記載があるということで、その部分のコピーをご丁寧に送ってくださいました。

それは、七箇条からなる誓約書でした。

古来年貢赦免地とされ、勤王の誉れ高く、その武勇で大藩からも一目おかれる存在であった十津川郷士の誇りと、開拓事業を成功させ北海道に新しい十津川郷をりっぱに築きあげ、旧郷に残った仲間と多大な支援をくれた政府の期待に応えなければという決意と覚悟が伝わってきました。

以下に、稚拙な現代語訳(意訳。赤字箇所)も付して、転載させて頂きます。(字が潰れて読めなかった所は、「●」にしています)

誓約條目

第一條 移住住民ハ故郷ヲ去リ骨肉ヲ別レ遠ク絶海ニ移住スル上ハ頼ム所ハ唯个移住者ノミ故ニ同移住者ハ葢ニ倍シ一致團結互ニ扶持提携シ緩急相救ヒ●●●●ミ毫モ猜疑ノ軋轢ナク偏ニ移住村ノ隆盛ヲ期シ御由緒相續ヲ計ル事

(移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。)

第二條 移住住民ハ其附與セラルヽ所ノ地所ヲ開墾シ自●ノ目途ヲ達セントスルノ旨趣ナルヲ以テ五千坪以上ノ地所ヲ開墾スル迄ハ他ノ業務ニ従事スヘカラス
 但シ官廷ノ許可ヲ得又ハ農閑ノ節ハ本文ノ限リニアラズ

(移住住民は、移住・開墾の費用として政府から破格の恩賜を受けたのだから、それぞれ五千坪の土地を開墾するまでは、他の仕事に従事してはいけない。但し、役所の許可を得た場合や、農閑期の場合はその限りではない。)

第三條 本郷ヨリ分割スル所ノ金貢ハ旡諭恩賜就産資金ハ幾多ノ困難ニ遭遇スルコトアルモ各自分割消費スヘキモノニアラザレバ之ヲ新十津川村ノ基本財産ト為し相應ノ利殖ヲ設ケ将来樞要ノ村費ヲ支ヘ教育殖産等ノ資ニ供スヘキ事
 但シ本條ハ相富保護方法ヲ設クル迄ハ公債證書ヲ請求シ道廷ニ保護ヲ上願スルモノトス

(恩賜金及び、旧郷から受け継いだ共有金は、新村の基本財産となし、いかなる場合においてもこれを各自に分割して消費すべきものではない。但し、新村の共有財産の保護策が確立されるまでは、道庁に保護を依頼するものとする。)

第四條 移住開拓創業ノ際各自非常ノ節儉ヲ守ラサルヘカラス依テ左ノ各項ヲ堅ク服膺スル事
一、不急ノ器物ヲ購求セサル事
二、家屋ノ構造ハ成丈ケ堅牢質素ヲ主トシ苟モ装飾ケ間敷事一切アルヘカラス
三、一家族ノ外二人以上會席酒宴ヲ為スヘカラス
 但シ新村ノ記念日大祭日祝日ハ此限リニ非ス
四、村内ニ於テ飲食店ヲ開カサル事
五、衣服ハ成ルヘク木綿ヲ用ユル事

(移住開拓は非常事態なのだから、一人一人が倹約に努め、以下の各項を堅く守ること。1,不急のものは購入しないこと。2,家屋の構造は質素堅牢のものとし、一切の装飾は施さないこと。3,家族以外に二人以上加わる会席・酒宴は行ってはならない。但し、新村の記念日大祭祝日はその限りではない。4,村内に飲食店を開いてはならない。5,衣服はなるべく木綿のものを用いること。)

第五條 學校ヲ興シ教育ヲ盛ニシ児童ヲ就學セシムル事ヲ怠ラサルヘシ

(学校を設立し、教育を盛んにし、児童を就学させることを怠ってはならない。)

第六條 各自禮節ヲ厚クシ苟モ風儀ヲ乱リ世間ノ笑ヲ受ケサル様互ニ相慎ムヘキ事

(一人一人が礼儀作法を大切にし、いやしくも風儀を乱し世間の笑いを受けるようなことがないようにお互いに慎み合うこと。)

第七條 前各條ノ約ニ背クモノアル時ハ什長伍十長村吏等再應之レヲ懲戒シ到底改悛ノ見込ナキモノハ給與年間ニアッテハ官ニ請フテ給與米金ノ幾部ヲ減スル事アルヘシ又給與年間后ニアッテハ村中隣保ノ私交ヲ絶ツモノトス

(以上の条項に背くものがある時は村のリーダー達がこれを注意・訓戒する。しかし、改善の見込みがない場合は、官に頼んで米や金の支給を減らし、それでも直らなければ、村中から交友を絶たざるを得ない。)

右ニ記載スル所ノ七ヶ條項ハ堅ク相守リ約束ニ違ハサルヲ誓フ依テ左ニ署名捺印ス

(以上に記載した七箇条を堅く守り、約束を違わないことを誓うので、以下に署名捺印する。)

明治廿二年十二月

移住者 戸主連名
    更谷 喜延
    田利 豊人
    乾  宣恕
    (以下 略)

なお、この移住は、北海道の開拓史上、類例をみないほどのスピードで行われたようです。「新十津川百年史」には、以下の記載もあります。

十津川郷における災害の発生は、明治二十二年八月十九、二十日であったが、それから数えて一か月の後には郷内における移住世論が統一され、二か月後には北海道への移動が開始された。そして十一月十八日、すなわち災害が発生してから、わずか三か月後には六〇〇戸の大移民団が空知太の屯田兵屋に集結を完了したのである。しかも、未曾有の災害の直後という混乱のさ中で、一方においては、差し迫った応急対策の急務を処理しなければならない事情にあったことを考えあわせると、このように移住が、迅速に遂行されたことは、まさに驚嘆のほかはない。

確かに、驚嘆のほかはありません。

さらに、移住後も圧巻です。開墾の目標を達成する努力、子どもへの教育への熱意。以下の新十津川町のホームページの記載からは、まさに、「七箇条の誓約書」で移住民達が誓い合ったような未来を切り開いた様子がみられます。

  • 困難を極めた開墾・・・

うっそう茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。蚊やブヨなどの悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、北海道の早い冬が、訪れていた。

  • 子供の教育に熱意を注ぐ・・・

文武両道を尊ぶ十津川の人々。子供たちの教育には熱心であった。開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、徳富川を挟むで南北に1校ずつ小学校を建てた。その後通学の不便解消に学校数も増えていった。 また、明治28年、母村にならい高等教育の場として私立文武館を建てた。
この、教育に対する熱意は、今日に至る新十津川の伝統となっている。

  • 水田が広がりはじめる・・・

明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化する。夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、着実に農業基盤を固めていった。明治35年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと。きわめて短期間での一級町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、入植者たちの不屈の取り組みの賜物であったといえる。
北海道新十津川町

こうした迅速な移住を成功させたのは、「十七箇条の議決」(コチラ)や「七箇条の誓約書」に象徴されるような強いリーダーシップと、そのリーダーを信頼する住民の強い気持ちがあったからではと思います。

ひるがえって、今。

国難を乗り越えるための「リーダーシップ」と「リーダーを信頼する強い気持ち」のいずれも十分ではないような気がします。

そして、まだ国難を乗り越えるためビジョン、いわば現代版・国家版の「十七箇条の議決」や「七箇条の誓約書」は、我々の前に示されていません。

でも、それを期待して待っていてもしょうがないと思います。政府や与党の数人のリーダーにそれを期待することは無理があることが明白です。

今は民主主義の時代、そして、良くも悪くも、個の時代。

「リーダーシップ」を「合意形成のプロセス」と、「リーダーを信頼する強い気持ち」を「(自分たちの)合意を守りきる力」と読み替えて、それを地域地域からボトムアップでつくっていく努力がやはり必要なのだろうと思います。

私が、十津川村、そして新十津川町の苦難の歴史をわずかながら勉強してみて感じたことは、このようなことです。

日本という国は、今突然こうした地震の多い、急峻な地形の、海底プレートの縁に立地する国になったわけではありません。遙か昔からこのような国なのです。

歴史から学ぶことはまだまだありそうです。

<追記>

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