名字と文化
1月中旬、大学時代の友人K君・Yさん夫妻と食事をした。
K君は1〜2回生のころにインカレの環境系サークルをやっていた頃からの知り合いで、Yさんとは、別の友人とYさんが部屋をシェアしていた関係で友人宅に遊びにいったときに知り合った。
別々のところで知り合っていたので、その二人が結婚したことを年賀状で知り、びっくりし、互いの結婚祝いがてら一回会おうやという話になったのだ。
思い出話に花がさいたが、名字(姓)の話にもなった。
結婚して名字はKのほうになったのだが、Yさんは、どうやら納得できていないようだった。Yさんは、古くから続く家の二人姉妹で、姉も自分も嫁に行ってしまったので、家を継ぐひとがいない、愛着のある名字も絶えてしまうと。
また、Yさんが結婚前に、世話になっている寺の和尚さんに相談したところ、「名字が消えることは、ひとつの文化が消えることですよ。」(だから、しっかり守りなさいね)と教えられたと。
「名字が消えることは、ひとつの文化が消えることですよ。」
この言葉を、今も時々思い出しては、反芻している。
自分には、まだうまく理解できない。でも、なんとなく分かるような気がする。
名字というのは、不思議なものだ。ただの記号でしかないはずなのに、それが、まさにDNAのような必然性をもって、家族や親族を結びつけているところがあるかもしれない。
名字を共有していることで、現代のように親族が日本全国に散らばって暮らしているような時代にあっても、遠く離れた親族に一体感と安心感を与え、親族を親族たらしめている。そして、冠婚葬祭があると、集まり、お互いの近況と、思い出を確認する。
そして、その一体感が、おのずと個々の家系の「文化」を醸し出すのかもしれない。
「名字が消えることは、ひとつの文化が消えることですよ。」
この言葉の真意はこのあたりにあるのだろうかと考えたり。
(文化というのは「地域」に結びつくものだと思っていたが、より近付いて見てみると、「家」の文化の集合体とも言えるかもしれない。)
そういえば、私自身も、思い当たる体験がある。
19歳のときに、名字が嶋田になったが(それ以前は父方の中島だったが、母方の姓である嶋田になった)、自分でも驚くほどに、嶋田姓へのアイデンティティや関心が高まったことを感じている。そして、嶋田家の文化、といっても堅苦しいものではなく、雰囲気だったり、料理だったりという程度だが、を大切にしていきたいなあと思うようになった。
こう思うようになった理由は、嶋田の祖父母に会いにいく機会が増えて、関係性が深まったというのが大きいと思うが、自分の名字が変わったということも効いていると思う。
それはさておき、
夫婦別姓の議論も改めて考えると、色々と難しいなあと思う今日この頃。
自分自身の今後の身の振る舞いも含めて、考えていきたいテーマだ。