「親が植え、子が育て、孫が伐る」
長野県の南端の人口1,180人、442世帯の村。村内に鎮座する茶臼山(標高1415m)で一級河川・矢作川の最初の一滴が生まれ、水を集めて延々118km、三河湾に注ぎ込む。村の92%を森林が占め、県内でも比較的早くから植林が行われてきた林業地である。
役場には幸いにも村長がいらっしゃって、沢山のお話を聞かせてくださった。
村長が何度もおっしゃっていたのが、根羽村の林業哲学であるという「親が植え、子が育て、孫が伐る」というフレーズ。
森林を育てるには時間がかかる。だから当然収穫までには3世代分ぐらいの時間が必要である。字面だけでは、そんなふうな意味であろうが、村での短い滞在の間で、これは、もっと深い意味を持っているのではないか、と思うようになった。
今回は根羽村が取り組んでいる邸宅管理システム(村内の森林から搬出した間伐材を村内で製材加工して付加価値を高め、住宅用材として都市部の施主に直接届ける仕組み)に関しての調査だったのだけど、村長の話は明治時代の村の歴史から始まった。*1
村の歴史の中で、明治から昭和初期にかけて3つの重要な転機があったのだと。これらがなければ、今の根羽村はないだろうと。
だから、今の根羽村を説明するには、明治時代の話から始めないといけないのだと。
その三つが以下。
一つめは、明治40年(1907年)から始まった村有林の貸付制度である。
当時、村では広大な村有林の経営を担いきれなかったので、全戸に2.5haを貸し付けた。その後、1世帯当たり3ha程度を地区ごとに貸し与えた。これらは以後に所有権が移譲されたので、根羽村では1世帯当たり最低5.5haの森林を所有することとなった。
これらの森林が戦後の国土復興期にちょうど伐期を迎え、木材収入により村も村民も豊かさを享受した。
二つめは、大正11年(1922年)から始まった官行造林事業である。
この年、村は国との間で官行造林の契約を締結し、1300haの村有林にスギ・ヒノキを植栽した。
この森林が、昭和32年から伐期を迎え、立木収入がピーク時は村の歳入予算の35%を占め、村の財政は大いに潤った。
この二つ体験が、村民の森林の手入れ・経営に対する意識を高め、村民はバブル期に全国がリゾートブームに沸き、近隣の山村にも温泉やゴルフ場、スキー場がぼこぼこと建設されていたときも、村民はこの村でコツコツと山の手入れを行っていた。
そして、このことが、バブル崩壊後に観光施設の負債を抱えることを免れ、また、今の根羽スギ、根羽ヒノキとしてのブランド形成の下地になっている。なお、今でも村民は、林業の低迷は一過性のものであるという強い思い持ち、積極的で山の手入れを続けている。
三つめは、大正3年(1914年)から始まった、明治用水土地改良区との上下流連携。
大正3年、矢作川下流の愛知県安城市で農地潅漑事業を行っていた「明治用水土地改良区」が、「水を使うものは自ら水をつくるべきである」との理念のもと、根羽村の村有林427haを水源涵養林として購入。ここから、今に至るまで、根羽村と安城市は、安城市の市民の観光や学校の環境教育の場として根羽村に訪ねる他、安城市が根羽村の村内製品を様々な機会を通じて購入する等、強固な連携が続いている。
これは、アイシン精機グループ5社等の都市部の企業との交流、根羽スギ、根羽ヒノキ等の根羽村の林業の認知、ブランド発信にもつながっている。
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今、根羽村は、森林整備から伐採搬出を手がける第一次産業、丸太を加工する第二次産業、製品を販売する第三次産業を地域内で完結させる「トータル林業」の取り組みで注目を集めている。長野県内に根羽村の材を使った産直住宅が毎年130棟、累計にしたら1000棟以上も建っているという。
その仕組みはビジネスフロー図などにしてみればそれほど複雑なものではない。しかし、この「今」だけを見て、その「形」だけを真似しようとしてもきっと失敗するだろう。
「親が植え、子が育て、孫が伐る」という3世代どころではない、5世代か6世代分くらいの時間の中で森林を育ててきて、試行錯誤を繰り返してきて、今があるのである。
今回根羽村で、改めて、林業という産業がストック型産業であることを理解した。森林の材積の蓄積だけではない、親から子、子から孫へという思いの蓄積、上流の民と下流の民の交流という関係性の蓄積、林業という産業を支えてきた暮らしの蓄積。
しかも、根羽村は、そのストック、蓄積を明確に意識して未来に生かそうとしている。そのストックを蓄積してきたことを未来に継承していこうとしている。だから、強いのだ。(ちなみに、根羽村が平成16年に合併をしないことを選択した際に、村長が行った根羽村「ネバーギブアップ宣言」は圧巻だ。決意と確信に充ち満ちている。)
村有林の貸付制度や、官行造林事業、水源涵養林の売却と行ったことは、よくよく考えてみると、決して珍しいことではない。全国の山村で同じような出来事は少なからずあったであろう。
しかし、その出来事を「村の財産」として継承してこなかったことで、その貴重な蓄積をいとも簡単に捨ててしまっている地域が多いように思う。
国も、今の林業政策、山村政策で、森林や人々の暮らしや関係性をフローとして軽んじていないか、一夕一朝にそのフロー(流れ)を変えられると安易に考えていないか。ストックは、ストックとして意識してみなければ、それはフローに見えてしまうこともある。
歴史であり、蓄積なのである。
ストックは安易に変えることはできないということを意識しながら、あきらめずに、遠い将来に今を誰かが振り返ったときに、「あれが転機だったね」と思ってもらえるような、そんな事を成すことに注力すべきなのだろう。
現村長が、平成7年(1995年)に、「トータル林業」の最初の一手として議会の反対なども受けながらも最後の一軒となっていた製材所を買い取った決断は、根羽村の歴史において「4つめの転機」となるのではないだろうか。
自分もそんな「転機」を、自分の住む地域、関わる地域に残していきたい。
「親が植え、子が育て、孫が伐る」。
ありがたい言葉を教えて頂いた。
*1:なお、このシステムに関しては別途報告をまとめているので、ここでは省略。既にオープンなっているような話のみ記載。