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日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

新・ムラ論 NIPPON (隈研吾、清野由美著)

隈研吾の「新・ムラ論 NIPPON」を読了。

新・ムラ論TOKYO (集英社新書)

新・ムラ論TOKYO (集英社新書)

今、「村をつくる」を合言葉に進めているプロジェクトがあり、なんとなく手にとった本。
しかし、今自分が構想していることと近い考えがあり、共感が多かった。読んでよかった。
自分の肌で感じている世相やこれからの世の中の流れについて、確信が持てた。間違っていなかった。

うんうんと頷きながら読んだところを、メモ。

「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり、
また、多様な生き方と選択肢のよりどころである。
私たちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める。
(扉ページ)

村が破壊されるプロセスはさまざまであったが、破壊の大本にあるのは「空間の商品化」であった。
かつての村において、空間はそこにあり続けるもので、売り買いするものではなかった。しかし、二十世紀の人々は空間が私有の対象であり、しかも高額な商品であるということを発見した。
(中略)
二〇〇八年に起こったアメリカのリーマンショックが、サブプライムローンのシステム破綻をきっかけとしていたのは、すべての点で象徴的であった。空間の商品化は、村を破壊し、世界を都市で塗りつぶしていったが、今やそのシステム自体も崩壊しつつある。それが空間というヤバい商品の行きつく先であった。
(P17)

その場所と密着した暮らしがある場所をすべて「ムラ」と僕は呼ぶ。現代美術の領域では「サイト・スペシフィック(場所密着型)・アート」という言い方があるが、サイト・スペシフィックな暮らしがある場所はすべてムラである。だから一見、都市という外観であっても、そこにムラは存在しているし、事実、すでにさまざまな場所で人々はムラを築き始めつつある。
(P22)

隈 すべての創造はモラトリアムから出発する。悩みに悩んだ末に、新しいものが出てくるんです。そのだらしのない悩みこそが、価値なんです。現代の「ムラ」というものは、そんなモラトリアム人間に居場所を与える、空間的な仕組みの別名なんです。
(P61)

そもそもムラとは、演劇的空間のことであった。ムラを、人々が演技することなくハダカでつきあう場所だと思っている人は、ムラの本質が分かっていない。ムラでは、演技によって人々はコミュニケーションを行い、お互いを救出し合うのである。それは「物質的救出」でも「工学的救出」でもなく、「演劇的救出」である。
(中略)
しかし、ムラには一つの危険が潜んでいた。演技をしているうちに役者が固定され、演技から自由が失われるのである。その時、ムラは「ハコ」と化する。近代とは、ハコになってしまった村を嫌って、村を解体した時代であった。その解体によって、演劇自体が否定されてしまった。すれ違いという最も優雅な演劇すら否定されてしまったのである。すれ違う時に、無から演劇は発生する。その、演劇の発生する瞬間がいちばん美しい。
(P127)

隈 秋葉原の魅力は今も昔も場末のバラック性と、それがゆえの祝祭性にあるわけで、その主役は誰かといえば、ドロドロしたものを持った村人です。そこに大きなビルと浄化された市民を持ってきても、村人と溶け合うことはできない。
(P162)

清野 「最先端の感性とネットワークが集まる磁場」として、従来の「村」ではなく、カタカナで記す「ムラ」を使って表しているわけですが。
(中略)
観光地としての人気だけではなく、よその人が「ここに住みたいな」と思って、実際に住んでしまえるようなところ。
(P185)

まちづくり、まちおこしは今、革命から格闘技へと変化しているところですよね。レフェリーは一人のプロではなく、多数のファンが努めるようになっていて、衆人環視の中でエンタテイメントとしての闘いが期待されるようになっている。その先端的な流れが小布施にはある。いってみれば、市民がいち早くK-1の観客になった。それが小布施の特徴なのだと思います。
(P226)