借りぐらしのアリエッティ
土曜日朝、庭に出ると、赤く熟れたミニトマトが沢山なっていた。
2,3個採って口に放り込む。厚く歯ごたえのある皮を噛み破ると、酸味のある果肉がじゅわっと舌を刺激し、眠気が一気に覚めた。おいしい。
まわりをぐるっと見回してみると、オクラも、ゴーヤも、唐辛子も、シソも、バジルも、みんな青々と元気に葉を広げていた。(かみさんが丹念に育ててきたおかげです、はい。昨年妻の妊娠中に僕が一人暮らししてたときは、荒廃していたので・・・)
そんな草いきれが立ち上るような野菜たちをみていたら、ふと「借りぐらしのアリエッティ」のCMを思い出した。そういや、こんな感じのうっそうとした庭が写ってたっけ。
で、思い立って柏駅前の映画館へ。
借りぐらしのアリエッティ。
とても良かった。傑作だと思う。
最近の宮崎駿作品(ポニョ、ハウル、千と千尋など)は、そのテーマ性や、物語の壮大さについていけず、なかなか物語に入り込めないところがあったが、今回のは自分が登場人物に共感しながら観ることできた。じんわりときた。
公開後の雑誌やブログの評価では、平坦で盛り上がりに欠けるとか、何が言いたいかわからない等々の声が目に付いたように感じたが、全然。山あり谷ありの、息をつかせぬドラマチックな作品だと思う。
小人の少女アリエッティの成長物語が軸になっている映画で、それを楽しむことで鑑賞法としては十分だと思うが、それで終わらないのが、ジブリ作品ですね。
例えば、アリエッティが、ショウの余計なお節介のせいで、自分たち家族が引っ越さなくてはいけなくなったと責める場面。
ショウは、謝りつつも、67億人の人口がいる人間の世界の中で、小人族が生きていくのは難しいだろう、これまで地球上に生息していた沢山の動植物種と同様に、小人族も絶滅してゆく存在なのだろうと嘆息する。
それに対し、アリエッティは、話を逸らさないでと突き放す。「人間」や「小人族」の話ではなく、「あなた」のせいで「わたしたち」が被害を被ったの、と。そして、でも「わたしたち」はなんとしても生きていくわ、と。
そのアリエッティの言葉に、ショウは、自分が心臓に病を持っていること、「ぼく」の命が短いだろうことを吐露する。
アリエッティは、そんなショウをみて、ショウが自分たち小人族を危険にさらす「人間」である以前に、自分たちと同じように血の通った存在であることを、感じる。
そして、二人は、意地悪な家政婦ハルに捕らわれたアリエッティの「おかあさん」を助けるために、手をとりあって行動をはじめる。
ただ、さらに、物語はもっと深い。
二人は、意地悪な家政婦から「おかあさん」を救い出すことに成功はするが、アリエッティ家族は住み慣れた家を後に、引っ越すことになる。
こうした事態を生んだのは、他でもない、余計なお節介をしたショウなのだ。そして、人間に興味を持って不用意な行動をしたアリエッティなのだ。意地悪な家政婦ハルは、諸悪の根源でも何でもなく、ストーリー的には一人の脇役にすぎない。
「わたし」や「ぼく」の存在自体、善意の行動が、他者に負の影響を与えることがある、他者の人生を左右してしまうことがある。
これを「人間は罪深い存在だ」などと分かったような言葉で終わらせてしまってはいけない。こういう人間の存在性を罪と言い切ってしまうことはできないと思う。「人間は(さらには、小人も)、(良くも悪くもない)そういう存在なのだ」としかいうことができないだろう。
アリエッティもショウもそれをわかっている。二人は、お互いがお互いのためを思って行動したことをわかっている。いろんな業を背負って、一人一人が、自分が精一杯生きていくだけ、そのことをわかっている。
ショウは角砂糖をアリエッティに、アリエッティは洗濯ばさみの髪留めをショウに、二人は思い出の品を相手に手渡し、別れる。アリエッティの家族を乗せたやかん船は、次の「借りぐらしのすみか」を目指して川を下っていく。
ジブリの作品は、いろんな解釈があるだろうが(社会的なメッセージばかりが注目されるときがあるが)、いつも、どんなときも、登場人物である「わたし」「ぼく」の生き方を描き、スクリーンの前に座る「わたし」「ぼく」に勇気と自省を与える。
そんなところが好きだ。