日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

「ノー・マンズ・ランド」「黒猫・白猫」

民族問題ってものは、この島国に住んでいると、なかなかしっくり理解できないことが多い。

世界で過去にそして現在進行形で起こっている数々の民族問題の中でも、旧ユーゴスラビアの問題は、最も理解しにくい部類のものだろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/Former_Yugoslavia_2006.png
多民族国家ユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家(または一人のチトー)」といわれるほどの多様性を内包していた。
(中略)
ユーゴの中心・セルビア共和国では大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民の多いコソボ社会主義自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。
1991年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(10日戦争)、次いでマケドニア共和国が独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
ユーゴスラビア紛争 - Wikipedia

「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」。

ユーゴスラビアという国を初めて知ったのは、小学生の社会の授業。上のフレーズとセットでその国の名前は先生の口から出た。そして、教科書には、様々な民族衣装を着た人が仲良さそうに手をつないでいるイラストもあったっけな。

へ〜、なんか楽しそうだな。いいなあ。

私に限らず多くの児童がそう思ったに違いない。

だから、それから、10年以上経って、高校生の頃、ユーゴスラビアでドンパチはじまったことを新聞やテレビで知ったときは、なんだか裏切られたような気がした。

そして、大学生になって(その頃紛争はほぼ終結していたと思う)、「ノー・マンズ・ランド」を大学近くの小さな映画館で観たときは、落胆を通り越して、激しく混乱した。


ノー・マンズ・ランド

「仲良く一緒に暮らしてたはずなんじゃないの?なんで殺しあってるの?」

で、前置きが長くなったけど、昨日、たまたまボスニア・ヘルツェゴビナ人と、(人生で初めて!)会って話す機会があった。

友人が住む寮に遊びに行って、オープンスペースでパーティをしていたら、そこに同居人のボスニア人のベンが加わったのだ。

このユーゴスラビア紛争について、話したわけではない。たわいのない話ばかり。

でも、彼の言葉の端々に、上の紛争を理解する上でのヒントになるものがあったように感じた。

私「ボスニアと言ったら、サッカーのオシム監督と、映画監督のエミール・クストリッツァがいますよね。」

ベン「よく知ってるね。オシムもクストリッツァボスニア出身です。だけど、クストリッツァセルビア人です。」

私「ボスニアには何民族がいるんですか?」

ベン「ボスニア人と、セルビア人と、クロアチア人。私はボスニア人です。同じ国民と言っても、中国人と韓国人と日本人くらい違いますよ。」

そうか〜、と、何かをすっと理解できた気がした。

「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」

こんなの、つくりものの「美談」でしかなくて。

ユーゴスラビア国家なんて、一種の幻想のようなものでしかなくて。

人々はやっぱり、セルビアボスニアクロアチアといった民族に強いアイデンティティを持って生きていたし、今もそうして生きているんだろう。

それを政治的に束ねたのが根本的な間違いであって、それが不幸を呼んだ。結局はそれだけなんだろうな、と。

もちろん、原因は複雑・複層に入り組んでいるに違いなくて、それを私はまだ理解できていない。

でも、ボスニア・ヘルツェゴビアからやってきた一人のボスニア人と話すことで、私は、「美談」を押し付けられた小学生の頃に端を発し、高校生の頃から心の片隅にあった個人的なわだかまりを解くことができたのだ。

***

余談(というには重い話)だが、もう一点。

実は、上の「五つの民族」にも入れられておらず、民族問題の俎上にも載らない民族がいる。

ロマ、あるいは、ジプシーと呼ばれている人々だ。

ロマ(Roma、単数形はRom)は、北インド起源のロマニ系に由来する移動型民族。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。
過去、ジプシーとして知られた民族を、ジプシーはエジプト人という誤解から来ていること、及び、ジプシーという言葉が偏見、差別的に使用されていることなどを理由に、最近では彼等全体をロマ(その単数形のロム)と呼ぶようになっている。
ロマ - Wikipedia

よくみると、wikipediaに1行だけ、ひっそりと「1999年のコソボ紛争では、コソボ地域内の少数派セルビア人住民に荷担されたとされるロマやアッシュカリィの一部が、報復を恐れて国内避難民化した。」と触れられていた。

ここで、昨日の話に戻る。

ボスニア人のベンと、エミール・クストリッツァの映画について話していたとき。

ベン「クスリッツァが、ジプシーの日常を描いた映画知ってますか?ブラックキャット・ホワイトキャットという映画」

ブラックキャット・ホワイトキャット(邦題:黒猫・白猫)は、知っているもなにも、最も好きな映画の一つだ。


黒猫・白猫

だけど、あの映画が「ジプシーの日常を描いた映画」と説明されたことに驚いた。

あの映画に登場する人々の置かれた境遇は、日本人の感覚からするともちろん「ありえない話」だし、「さすがにジプシーの生活もこんなにひどくないだろ」と思っていたから、それが「日常を描いた」と言われたことにびっくりしたのだ。

そんな社会(社会の底辺、あるいは社会の外側と言ってもよいかも)を背景画として丹念に描きつつ、そこでたくましく陽気に生きる人々に焦点をあて、あたたかいユーモアで包んで、極上のコメディーに仕立てて見せたクストリッツァの手腕に改めて感動。

黒猫・白猫」はDVDを買ってこれまで10回近くも観ているが、次観るときはだいぶ印象が違ってくるだろうなと思う。。

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さらに余談だが、大学4回生の春、スロバキアを自転車旅行したときのこと。

一緒に回っていた友人のスロバキア人が、ロマ人(スロバキアにもどんな小さな村・町にもロマがいる)を指差して、私に言った言葉。

友人「あいつらは、モノは盗むし、悪さはするし、社会の害だ。決して近付いてはだめだ。どんな目に合うかわからないぞ。」

私「彼らもスロバキア人なの?」

友人「そんなわけないだろ!あいつらは何人でもない。一緒にしてもらっては困る。」

私「・・・。」

その友人は、学校の教員をしている温厚な人で、ベトナムで最初に会ったときにもベトナム人と親しく・分け隔てなく接していたような人だったので、そのときの剣幕と、目の奥に見え隠れした怒りの色には驚いた。今でもはっきり覚えている。

すさまじく根深い「問題」が、社会の根底に、そしてそこに生きる個人の心の中にも横たわっているのを感じた。

それからというもの、私は「ジプシー」や「ロマ」という言葉を口にするときに、何か胸がきゅうっと締め付けられるような気持ちになるのだ。