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日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

四つのいのち

5月中旬に渋谷のシアター「イメージフォーラム」に映画「四つのいのち」を観にいってきた。(参考

こんなに動揺した映画は人生初。

ナレーションも、BGMも、さらには一切のセリフもない。

そして、映画の前半で、主人公だと思っていた老人は死んでしまい、次は山羊に焦点が当たるわけだけど、その山羊もどこかにいってしまい、次は木の物語りになるんだけど、敢えなく伐り倒され炭になり・・・。

最初は、イタリア・カラブリア地方の古い街の家並みや、牧歌的な風景を楽しく観ていたのだけど、映画の中盤から、正直「居心地の悪さ」を感じ始めてしまった。

自分でもうまく表現できない感情。決して「つまらない」わけでも、「退屈」なわけでもない、むしろどんどんと映画の世界に引き込まれている自分がいた。でも、どこかで「居心地の悪さ」を感じてしまっていたのだ。

この不思議な感情は映画が終わるまで続いて、どうしても気になって、というか感情を処理できなくなって、この感情を説明してくれる何か糸口が書いてあったりしないだろうかと思い、映画館の売店に行き、パンフレット(600円)を購入。
(普段僕は映画のパンフレットを滅多に購入しないのだけど。)

パンフレットに答えがあった。

人類学者の中沢新一が以下のような解説を書いていた。ちょっと長いが引用させてもらいたい。

(前略)映画のカメラは、あらゆるものを平等に映し出す潜在的な能力を持っている。(中略)映画は世界の「プラウダ(真実)」を映し出す能力を帯びて出現した第三の眼として、シンメトリーの精神に忠実に仕えることができるはずなのである。
しかし、自分に与えられたその使命を果たし得た映画は、きわめて少数にすぎない。人間でも動物でも、画面のなかにあらわれた生物が、自分の存在を特権化して、自分のまわりになにかの物語を引き寄せ、それを駆動させはじめたその瞬間に、見る者の意識のなかで「シンメトリーの自発的崩れ」が起こる。シンメトリーがいったん崩れると、そこから先は自意識のつくりだす物語が、際限もなく紡ぎだされるようになる。そのとたんに映画はプラウダではなく、妄想を語る道具となってしまう。(中略)
「四つのいのち」で驚かされるのは、まるでそれが映画の宿命であるように思われているこの「シンメトリーの自発的な崩れ」が、ほとんどまったく起きていないことだ。山羊飼いの老人、山羊、樅の木、炭。四つのいのちの形態は、自分に与えられた世界の中での役割を果たすべく、自分のいのちを全うする。どこにも迷いがなく、どこにも狂いがない。

また、この映画のミケランジェロ・フランマルティーノ監督も以下のように語っている。生物多様性やサステナビリティといった事についてどのように考えるのかという質問に対して。

そういったテーマを扱うことには、フィルムメーカーとして責任があると思っています。なぜなら、人間を中心に物事を考えるということは、遠近法からきているのではないかと考えるからです。中世の終わりからルネッサンスに至り、遠近法が開発されて、人間の視点を中心に置くという考え方が生まれて、そういう芸術から科学が進歩していって、つながっていった訳です。映画というのは遠近法を受け継いでいると私は考えます。
ですから、これから再び自然と人間とが新しい関係を示していく方向に対して、映画が大きな役割を果たすべきだと思いますし、私自身もフィルムメーカーとして大きな責任を感じています。

なるほどな、と。

普通の映画は、人間やマスコット的な動物などの主人公に特権的な役割を与えて、具体的には遠近法の手法で主人公に焦点をあてて、それ以外の背景的なものをぼやかすことで、「シンメトリーの自発的崩れ」を働きかける。

しかし、この映画はそういった「遠近法」や「シンメトリーの自発的崩れ」といった映画技法に安易に依存することを避け、ひたすら「プラウダ(真実)」を映し出すことを追求している。山羊飼いの老人も、山羊も、樅の木も、炭も、同じように捉え続けた。

それに対して、人間を視点の中心に置く考え方に染まりきっていた僕は、あるいはそういう映画に慣れ親しみすぎた僕は、この映画の「シンメトリー」な世の中の捉え方に順応できなかったのだろう。

まさに監督の術中にはまった感じ。パンフレットを読みながら思わず笑ってしまった。

時間は相当かかりそうだけど、この「居心地」の悪さを少しでもこれから解消していきたいと、思った。

自分が、あるいは人間が中心にいなくても、自分が山羊や炭や木と同じ存在であると見せつけられても、平然としていられるように。

なれるだろうか。いや、難しそうだな(笑)。

いや、でも「サステナビリティ」を扱う仕事をしているからには、そして、そういう暮らしを志向しているからには、そうならないと。

頭で「サステナビリティ」や「自然と人間の対等な関係」を理解するのではなく、感情としてもうまく処理できるように。

それが本来の、太古からの人間のあるべき姿なのだろうし。

10年後くらいに、もう一度この映画を観てみよう。それまでには、少しでも、人間として成長していたい。