日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

地域イノベーションのDNA


11月下旬に岩手に4日間ほど行く機会があった。岩手山、住田町や釜石市などを巡ったが中でも、住田町は特に印象的だった。*1

住田町は、岩手県の南東部に位置し、町面積の9割(約3万ha。うち、約4割が町有林)を森林が占める町。町内の森林で生産された木材をそのまま町外に出すのではなく、町内につくった木材加工団地のラミナ工場、集成材工場、プレカット工場で、スギ集成材、パネル製品などに加工し、ハウスメーカーや地域ビルダーに供給している。
このように町有林を中心とした川上と、木材加工団地という川下が連携し住宅市場へ打って出る取り組みが特徴的。一時の経営悪化も克服しつつこのいわば「住田型林業」を追求し続けている。

この秋訪れた他の地域(宮崎県諸塚村、長野県根羽村など)で感じたことを、住田町でも感じた。

それは、「地域イノベーションのDNA」とも言うべきもの。

これらの地域はいずれも、今まさに「先進的」とメディアや官公資料等で評価されるような取り組みをしているところ。最近の取り組みによって山深い町に全国からの視察や見学が増えている。

だけど、地元の年配の方によくよく話を聞いてみると、「数十年前にも、全国から視察がひっきりなしに来た時期があったんですよ」と言った類の話を耳にすることが少なくなかった。

宮崎県諸塚村コチラ)や、長野県根羽村(コチラ)でも、今回の住田町でもそういう話を聞いた。

住田町は、昭和40年代から50年代にかけて、野菜と畜産と の組み合わせによる複合経営で、平均耕作面積60アールを集約した「住田型農業」の成功で全国に知られた町だったそうだ。

「住田型農業」とは何か

    • 住田型農業の出現するまでの日本の農業は、公的機関から勧められる作目をほとんど鵜呑みにしていた。自ら額に汗して農作物を作り、どの地域、どの時期が最も適しているかなど、体験のない机上のプランナ−の言いなりになること自体、危険千万といわなければならない。当然失敗をする。その尻を農林水産省に向ける。だからといって損失が補填されるわけでも何でもない。「農政はノ−政だ」と罵るのが関の山だ。その反省に立って住田型農業が誕生したのだといってよいと思う。
    • たとえば公的機関が住田町に特定の作物の生産を奨励してくる。ところが住田町はこれを鵜呑みにはしない。農・林・商工の三団体の代表が一同に会してその是非を検討する。その結果、キユウリが選ばれたとする。生鮮野菜の一品目として出荷する数量と漬物として出荷する数量とを計算のうえ、生産する。併せて漬物用のビニ−ル袋やプラスチック製の容器が用意される−こういった具合なのだ。
    • 他から押しつけられるのではなくて、検討の結果、何が最適の産物であるかを知って始めただけに、事業の推進には殊更力が入る。これこそ、これからの日本農業の進路として、大きな示唆を与えてくれるものではないかと考える。

危機の日本農業とその活路

今、村の「住田型林業」を引っ張っている町衆は、町に活気や潤いをもたらした「住田型農業」を先導した上の世代の背中を見ながら「いつかは自分たちも」と思いながら、林業に立脚した町づくりを進めてきたのだそうだ。

こういう話を聞きながら、イノベーション(を起こす力)というのは、世代を越えて継承されていくものなのかもしれない、と強く感じた。さらに言うと、「地域イノベーションのDNA」と言ったものがあるのではないかと。

革新者の次の世代も革新を起こす。そんなことが各地で起きているのではないかと。

イノベーションにも、賞味期限がある。どんなに革新的なアイデアも、いつかは必ず陳腐化する。
国内や地域内、世界の状況の変化によって、戦略を見直す必要がある。

そう考えると、イノベーションのDNAを創っていくこと、つまりイノベーションが数十年に一回は起こるような素地(体制、意識)を創ることこそが、持続可能な地域づくりなのではないかと思った。

但し、この地域イノベーションのDNAと私が(勝手に)呼んでいるものは、もともとあるものではなく、上の世代がその背中を下の世代に見せていくことで、いつのまにやら、自然にできてくるものだと思う。

ただ、たとえ過去にイノベーションの歴史がないからと言って、うちには、そんなDNAは無いなんてことを言っていても始まらない。

まずは、イノベーションの「第一世代」をつくること、「第一世代」になることが、自分たちにとっての課題だろう。

それが、いつかは強固な「DNA」となって、未来永劫受け継がれていくことを願いながら。

*1:なお、詳細な結果は別途報告をまとめているので、ここでは省略。既にオープンなっているような話のみ記載。