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日本再発見ノート Rediscover Japan. 

株式会社さとゆめ・嶋田俊平の日々の思い、出会い、発見

金原明善

最近、林業関係の仕事で何度か静岡に行く機会があったのですが、何度も何度も「きんぱらめいぜん」という人名を耳にしました。

金原明善(きんぱらめいぜん)。天竜川の水害をなくすために堤防を建設したとか、天竜川上流に植林をして天竜林業の礎を築いた方とのこと。

畏れ多くも私は知らなかったのですが、どうやら静岡、特に天竜川流域では、小学校の道徳の教科書に載っているそうなので、全国で言う二宮尊徳二宮金次郎)と同じような位置づけなのでしょう。で、興味が湧いたので、少し調べてみました。

金原明善(きんぱらめいぜん、1832年 - 1923年)は、明治時代の実業家。1832年6月7日(天保3年)遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。
金原明善 - Wikipedia

http://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/story_tenryu/image/photo02_02.jpg
川の氾濫を治めるためには健全な森林を作る必要があるとし、明治19(1886)年、54歳の時、オランダ人の河川技術者リンドウと天竜川上流の森林調査を行い、豊田郡瀬尻村の御料林を借りて植林に着手したのです。

雑草を焼き、根を取り除き、岩を火薬で爆破するなどして新開など6ヶ所の苗圃でスギやヒノキ 302,800本を育て、同時に新しく造った林道を含め66kmの道を開きました。はじめは彼の行動を非難する人たちも大勢いましたが、明善は少しも気にせず森づくりに励みました。
3年かけて育てた苗を自分で担いで登ったり、山小屋に寝泊まりしながら一生懸命に植林をする明善の姿は、次第に人々の心を動かし、多い時には800人もの人々が手伝いに集まったそうです。こうして292万本のスギやヒノキが山で育ち、今では天竜美林と呼ばれるほど全国的にも知られる森となったのです。
天竜川に橋を架ける 金原明善

なるほど〜。すごい人です。あと、私が金原明善のエピソードを読んで強く感じたのは、彼のやっていたことはまさに「公共事業の原点」だなあと言うこと。
今の時代に、同じような事業をやろうとしたら、「はい、補正予算で○千億円付けて・・・」とか「治山は林野庁の管轄で、治水は国交省で・・・」とか「おたくの県に道つけたら、こっちにもつけてよ・・・」とか、そんなきな臭い話ばっかりになってしまうこと間違いなしです。

明善は、まさに、治山、治水、森林保全といった地域にとって必要かつ緊急性の高いことを完全なる「公」のマインドを持って、自ら先頭に立って汗をかき、人々の理解と協力を得ながら、成し遂げ、後世に残したのです。これがまさに「公共事業」というものではないでしょうか。

そんな明善の事業経営の基本方針がとてもグッときました。

明善の事業経営の基本方針は
1. 身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
2. 事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。
3. 事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に俟たねばならぬ。
金原明善 - Wikipedia

「事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。」
税金をばらまいて、後世に借金ばかり積み上げている政治家たちに聞かせてあげたいです。

あと、明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という金の活用法を実践した事業家でもあるそうですね。

次、天竜に行く時は、金原明善記念館に寄ってみたいです。