楽天的な「明治」
ここ数週間、出張先の宿、通勤電車の中、時間があればこの世界に浸っていた。
前半は幕末から維新後の混沌、後半は日露戦争の悲惨な描写が続く物語なのだが、読んでいる間中、妙な違和感が頭の片隅にあった。
その理由を、司馬遼太郎のあとがきの言葉を読んで、すっきりと理解できた。
維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、長い日本歴史のなかでじつに特異である。
これほど楽天的な時代はない。
むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く、民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害者意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。
そう、時代背景の暗さと、その時代に生きる人々のあっけらかんとした明るさが同居していて、どうにもこうにも不思議な感じなのだ。
政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。
この楽天家たちが、
やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく
わけだから、無条件で良い時代とは言いきれない側面もあるが、登場人物たちがとても楽しくやっているふうなので、良い時代だったんだな〜という感想を持った。
翻って、今の日本。平成の日本。
明治とは全く逆。
今の日本は、(少なくとも、明治時代や、アフリカの国々の状況と比べて)決して恵まれていないとは言えないのに、何だろう、巷には「悲観的」な空気が漂い、「悲観主義者」で溢れかえっている。
この違いは何なんだろう。
明治と今は、社会的な前提が色々と違うので単純に当てはめることはできないけれど、要するに、
部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。
↑こういう状況をありとあらゆるところで作っていくことが、「時代を明るくする」ことにつながるのだと思う。
幼稚園で、学校で、会社で、家庭で、町で、国会で、内閣で、サークルで・・・。
「ただひとつの目的にむかって」とか「うたがうことすら知らなかった」とか、確かに民主主義国家(?)的には、NGワードかもしれないけど、それが押し付けではなく、醸し出されてくるものだったら、こんな幸せな空気はないだろう。
司馬遼太郎が、この小説を書いたのはだいぶ前だし、どういったつもり書いたのかは、心底までは分からない。
だけど、今、この平成の時代の中にあっても、読むことで得られることが沢山あるような気がする。
少なくとも、私はとても勇気づけられたのだ。
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